悟りはないけど諦めでもない

我想う支援日誌
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今月はどうしたんだ!?と思うほどの勢いで毎日紹介による入会相談と墓閉じ相談が続いてますけど、葬式依頼に限らず、電話が鳴りっぱなしの日があれば、シーンとしてる日もあるけど、今日は呼ばれる日らしい――、繁忙日と閑散日がハッキリしてるのが葬式あるあるなんだろう。

事前相談はまず「対象者」「家族の想い」「価値観」そして財布も含めた「事情」を聞き、支援対象か否かの確認、支援対象であれば「当方ができる支援内容」と「過去2,000施行から得た想いと実践例」更には実際の流れが映像化できるよう式場を見ながら話す事も多い。

葬式=宗教儀式と思わないので葬式の話しは10分ほど、後は家族毎に存命中や死後手続きの話しが早い人で1時間、長ければ2時間ほど話す僕の言葉や思考を聞いた人から時々出てくる言葉に「悟り」があり「我々としてはとても有難いですけど、代表が悟られたのは何かきっかけがあるのですか?」

『ん!? 俺が悟った人間に見えるの?』

悟ったように見えたら嫌な気はしませんけど、自分を客観視すると『お節介で自己満足してる奴』が本当のところだろう。今もそうですが時々寝不足からの口内炎で一週間ほど痛い思いをする度『馬鹿じゃねぇの』と思うし『俺ってこんな奴だったかなぁ』と今更ながらに思う事さえある。

多分、利益や宗教や一般的な常識より、残る家族の生活最優先の思考が「悟り」を感じさせるのだろうと思うけど単に『自分が何かして喜んでくれる人を見ると嬉しくなる性格』によるものに過ぎない。

下世話な話しをすれば若い頃はエッチも強くて女性が「いき過ぎもうだめぇ・・」となれば「おっしゃー!」と満足してたような煩悩いっぱい人間でしたから「悟り」ではないだろう。

そもそも『悟り』とはなんぞやと調べてみましたが「理解した」ことを「悟る」の表現は理解出来ても会員さんの言う「悟り」は、どの文章を見てもしっくりせず日々の自分と照らし合わせてみますが理解も納得もできません。

何を以って「悟った人間」に見えるのか考えると、葬儀支援の優先順位は明確でシンプル『法に触れず無理の無い葬式を提供』もっと端的に言えば『葬式は家族が食うに困らない範囲で行う』その企画と施行の手伝いが支援の本質、更には僕自身の生き方となってるのは何となく分ります。

貧しい国の人達が真っ先に考えるのは「食えればいい」という事、自分で食い扶持ぶち確保するなら食えるだけ稼げる健康やスキルは絶対条件、それが達成できればあとは毎日を元気な笑顔で過ごすのに必要な条件や要素を加えるだけです。

とは言え完全健康体なんて人はそうそうおらず僕は「糖尿病」「脂肪肝」「癌体質」で病院に通う日々だけど病院に通えたり、普通に食えたり、時々楽しみを作りながら頼ってくれる家族に自己満足させて貰えたり、お礼を言われる日々は生き甲斐にもなってます。

寒い夜中に起こされたり、寝不足になったり、酒も飲めず、旅行にも行けず等々大変さもありますけど、何をするにも好き勝手やって成し得るものなどありません。

僕の場合で言うと『普通に食えて老いて尚、生き甲斐のある生活ができるのは頼って来られる家族あっての事、精一杯家族の事を最優先するのは結局は自分の満足感をより強くする為なんだと思う』

利用した家族が「助かった」と思われるとしたら。それは結果論というか自己満足の副産物のようなもので僕自身の「悟り」ではありません。

ただ自分が幸せで無かったら、他人を幸せにしたり、支援などできません。

だから「悟り」=「諦め」に近い印象を持つ方もおられるようですが、僕を見て悟りを感じるとしたら、僕の中に「諦め」はありませんので「悟り」と「諦め」は間違いなく別物と言い切れます。

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