葬式はもっと自由に行われるべき

我想う支援日誌
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あんしんサポート設立の原点が『国保からの葬祭費5万円で火葬できれば一銭も無くても死ねる』という弱者家族の目線から始まり、15年間2,000施行では様々な宗教者と出逢ってきましたが疑問と不信が増し断然たる無信仰者として確立した自分がいます。

勿論、それぞれ信仰のある方々を否定もしませんし、その人達が葬儀支援を必要とすれば支援提供や協力もします。ってゆーか『無信仰者』だから全ての信仰を偏見持たず平等に見られるんだと思う。

僕が無信仰者だからか「自分も無信仰です」と言う家族が大半なのは、うちを利用する人達限定なのか、それが日本の縮図なのか分りませんけど利用者の90%は無信仰者、10%が仏教、キリスト教、神道の信仰を持つ人達で、宗教儀式の葬式は過去の慣習に沿ってるだけの人が大半です。

「最大の疑問、行政は何故に仏教作法を当然の如く行うか

・式場祭壇は仏式(神式)である
・当然の如く仏教用の香炉が置かれる
・拾骨では斎場職員が当然のように箸を渡す
・ひとつの骨を二人で挟んで(仏教)と説明
・第二頸椎喉を喉仏と説明する(仏し仏教)
・残骨の収納場所に地蔵や仏像が建ってる

圧倒的に仏式の葬式が多いから――、なのだろうが、行政や或いはブログや動画を見ても全てが仏教や宗教からの話しを真実であるかの如くなのだから素直な人達は信じるだろう。その姿は正に宗教勧誘にさも似たりと感じるのは僕だけだろうか。

日本は特定宗教に固守せず信仰の自由を解いてる国家でありながら、仏教作法を当然の如く行う行為が仏教を勧める助長である事に気付いてるのだろうか!?

無信仰者の僕からすると『葬式と宗教は別もの』と考えてるので同様の思考をする人達は沢山おられるでしょうが、周囲が葬式を宗教儀式、もっと言えば仏教儀式であるかの如くの布陣なのですから信仰心が無くても従う人達が大勢いるのは当然です。

そもそも葬儀支援のきっかけが父親逝去の一報であり、看取ってくれた人の話しを聞き「葬式とはなんぞや」との疑問から始まり、葬式貧乏の現実を知り、そこには暴利を貪る葬儀社と宗教者が元凶であると分った事から余裕の無い人達の生活が守れる葬式の創造から始まったのです。

信仰心のある人達は自分の信仰で行えばよく、過去の慣習を良しとする人達も好きにすれば構わないのだが、僕のような無信仰で過去の葬式慣習が最悪と思う人達は『自由に葬式をすれば良く』周囲は自分の思考を押し付けることなく温かく見守ってあげられるくらいの度量は持って欲しい。

15年間葬儀業界で生き、2,000施行を担当したにも関わらず、16年前から全くブレる事が無いどころか『葬式はもっと自由に行われるべき』の想いは強くなり続ける自分を感じます。

供養したい気持ちは理解も納得もできますが何をしても死んだ人が還ってくる事はありません。我々ができるのは温かく送ってあげる事、そしていつまでも忘れない事で、有りもしない信仰の宗教儀式を行うことに何の意味がありましょう。

大金を払っても故人が良い場所に逝ける訳でも成仏できるわけでもありません。その金を使うのはこの世で生きてる普通の人達で法力があるわけでもありません。

お金を掛け=供養と錯覚したり、見栄を張ったり、世間体を優先するより故人目線を第一として『誰が集い』『どんな形で』『何をしたら』『故人が喜んでくれるだろうか』と故人を良く知る人限定の集う人達で話し合って葬式内容を決めては如何でしょう!?

集いの中で自然に出る配偶者や家族、友人である貴方の笑顔が最高の供養になるのでは!?

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