時代と我が家の遺骨供養を考えてみた

我想う支援日誌
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昨日納骨を見て改めて入りたくないと思う自分と対面した事で俺ならどんな遺骨供養を望む!?』と自問してみると非常に明確な答えが浮かんできた。

遺骨、それも900℃で焼いた焼骨に魂が宿るなどあり得ませんから自分の遺骨は『後に残った人達の好きにすれば良く』残る家族の考え方次第でしょう。

供養するなら墓より手元供養だろう

初めに言っておきたい事は『供養は残る家族が感じる事』分り易く言うと「きっとパパも喜んでるよね」と思えることをしたり、言ったりすることで、供養になったと思えたり笑顔のパパが思い浮かんだりすることが供養の基本、嫌々ではどんなに費用を掛けても僕の供養にはなりません。

自宅の居間で笑顔の写真と可愛い小物入れに入れた粉骨を置き、「おはよう」と挨拶したり時々「お茶入れたよ」とテーブルに出してくれたり、時には心配事、お願い、愚痴があったら ※1遺影に向かって話せばいつも満面の笑みで見守ってる事だろう。

※1遺影選択の基準は一択『遺影を見た人が笑顔に成れる写真』鮮明で無くても構いません。最悪なのは笑顔が駄目な免許の写真です。

また思い出の場所に行く時は火葬証明書も携帯して一緒に連れて行っても良いし、その場所、場所に少しだけ粉骨を撒いてもいいでしょう。

盆だ、彼岸だ、1年忌だと形式ばった事をされるより愛情を感じられる日々の所作が供養だと思う。

葬式の度に言う言葉があり何度も書いてますが改めて書いておきます

読経、戒名、祈りなどは宗教儀式の供養であって家族、友人知人等の供養ではありませんし、そもそも供養に「金」が掛かること自体がうさん臭く高額であれば霊感商法と言い切れます。

供養したい人は家族に限らず人生の恩師、先輩、友人知人などおられるでしょうが供養の基本は故人を忘れない事、時々で良いから思い出す事です。

また配偶者、祖父母、父母などの供養は『毎日を元気な笑顔で過ごす姿を見せ続けること』で心配させない事、これ以上の供養はありません。

あの世にお金は無く金が掛かる供養など存在しません。謝礼や供養料の金は誰が使うか考えれば分かるはずです。供養にお金は掛かりません。しかし本当の供養は心が無いとできません。

前回書いた「時代にも合わない「墓」の問題点」と擦り合わせをしてみます

Q 墓参りは必ず行けなくなる時がきます
A 自宅ですから室内が移動できれば彼岸、盆、正月、いつでも手を合わせられる

Q 建墓費用、納骨堂初期費用が高額である
Q 墓所の使用料や管理費が掛かり続けます
A 仏壇も不要、居間の何処かに置けば良く高額費用は掛かりません

Q 墓守が居ない家族が増え続けてます

A 最後の人は全ての遺骨紛と一緒に散骨すれば何も残らず心残りもありません

Q 最後は墓閉じ+出した遺骨処理に高額な費用が掛かる
A 墓閉じ費用は一切不要、もしもの時の全散骨を葬儀社にお願いするだけ

Q 墓は飛躍しようとする子供達の足枷あしかせとなり得る
A 国内外問わず何処にでも持っていけるので世界旅行をさせてあげる事も可能

ここで質問です

今回書いた「供養するなら墓より手元供養だろう」の内容と、現在当然のように行われてるジメジメした墓への納骨、どちらが供養になると感じますか!? 

答えはどちらでも構いませんし更に違う考え方もあるでしょう。貴方が供養になると思える所作を基準にされると良いでしょうし、自分の希望を配偶者や子供達に伝えおくと良いでしょう。

概念、慣習に惑わされず我が家で供養と思える事をしよう

家族毎に生活水準も違えば価値観も考え方も信仰心も違います。

お金が全てと考える人もいれば、名誉が一番と考える人もいるし、そんなものより健康が一番と考える人だっておられるでしょう。どんな価値観であっても正否の問題ではありません。

また家族間でも価値観は違うでしょうから供養に一律の基準などあり得ませんので自分達が最善の供養であると思うことをすれば良く『我が家の供養』が当然の時代はすでに訪れているのです。

今回の『俺なら――、』これが葬儀支援の基本思考という話しは次回です。

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