突然の起業話

我想う支援日誌
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美容室の開店や講習会は有料無料で数百回にも及びますから、話しの中で「一緒に仕事できたら良いですね」との社交辞令は何度となく聞き、社交辞令と分ってますから「そうですよね」と軽く伝えてましたが、そんな美容室の中から、当時は資本金300万円で有限会社を作ってしまった人がいました。

突然「会社作りましたよ」と言われ、初めは何を言ってるか分りませんでしたが、僕を代表取締役とした有限会社を作ったから一緒に仕事をしようということのようです。その話しを聞かされた直後、夜中に腹痛でどうにも我慢できず、明け方119番に電話して受け入れ病院に連絡して貰った上で、嫁さんの運転で病院に行き、全ての検査が終わるとようやく点滴してくれ痛みが引きましたから、点滴は凄いなぁと実感でした。

帰って良いか聞くと駄目、入院と言われ、そのまま両腕に点滴3本、ところが点滴が終わるまでトイレに行かない姿を見て、一歩遅れてたら脱水で死んでた可能性があるとまで言われた。検査、検査で1か月入院、最終的には原因も分りませんでしたが、ゆっくり考える時間だけは有り余るほどでした。

入院して3日後、余りに暇なので主治医に就寝時間までに戻ってくるからと、朝ごはんを食べると外出、夜9時までに戻る生活でしたから入院してた実感はさほどありませんが、新しい会社で行うホテルの婚礼美粧の現場を見たり、確認できた事から、これが進むべき道の流れかもしれないと退職を決めます。

退院後、1か月ほどした頃、社員が別の仕事をするのは認めていませんでしたから、役員が決まりを破る事は出来ませんので、退職の意を伝えると「別の仕事はしても良いから」と言ってくれましたけど、そんな事をしたら、これから社員を束ねられないと伝えるなど、中々了承して貰えませんでした。

それでも1年後の退職で合意、但し退職は社長が指示するまで誰にも言わない事として1年間過ごし、残り2週間の時点で「さすがに言わない訳にはいかんでしょ」と社長を説得するとようやく諦めてくれ、全社員、美容部、経営陣と送別会は3回もしてくれ、大きな額ではないけど設立後初めてという退職金も頂けました。

じつは入院前、取り扱いメーカーがとても多く、各メーカーの売上にバラつきが出る状態だった事から、分社して扱いメーカーを分ければ、1軒の美容室に両社参入入できるし、更に分社が進めば数件のディーラーが入ってるようでも実質独占できるからプラス要素が強くマイナス要素は少ない。

1年間は本社が面倒をみて、2年目から独立採算とすれば、社員には社長になる道が拓けるから、更に頑張ろうと思う人もいるだろうし、分社した各社が切磋琢磨すれば業績も上がり、各メーカーの購入条件もクリアし易く、これから10年、20年先を見据えればデメリットは殆どないだろうと提案。

問題は誰が最初の分社社長になるかでしたが、社長と常務が本社の理容部と美容部を統括すれば以前の体制に戻るだけで問題はなく、僕が一番適してると合意、当時十数名いた美容部社員全員に目を閉じさせ、、

代表
代表

数メーカーを持って分社する話しが出ており、1年間は本社が面倒をみてくれるけど2年目からは独立採算だから一歩間違えば給料も減るし、労働時間も長くなるなどリスクしか無いのは明白なんだけど、それでも僕と一緒に俺が行きますよっていう奇特な人がいたら、目を閉じたまま黙って手を上げてくれるか・・・

すると予想外にも全員が手をあげた事から、3人の会議でその旨を伝えると「だろ、武ちゃんが行ったら本社の美容部はどうするんだよ」と、言われましたが「社長と常務がいれは何の問題も無い」と反論したが、そのまま進まない状態で法人設立、入院となったのです。

世の中「if」はありませんけど、もしあの時、分社の話しが進んでいたら、僕の退社と起業は無かったでしょう。最も分社が絶対成功したか分りませんし、それが良い人生に繋がったかも分かりませんけど、多くの人は同様の分岐点をいくつも通り過ぎで今の人生があるはず、でも過去への執着は持つべきではありません。

起業はホテル婚礼メインの美容業、毎年営業所を増やしながらも、美容室はパーマからカットカラーの時代を想定、当時はアンアン、ノンノン等の雑誌から女子高生がトレンド流行の中心でしたが、40代に突入した団塊世代の女性を中心に白髪染め、それも出来るだけ明るく、低料金で毎月染められる設定をしました。

これが功を奏し事業は拡大しますが共同経営の難しさに直面、経営者の経験はなくサラリーマン感覚なのか、一緒に働く人間は仲間であると考える僕、共同経営者は会社は自分達のもの、働く人達は従業員で仲間ではないと考える人、どちらが良い悪いでなく、根本的に思考が違うと上手くはいきません。

結局、株式会社は閉鎖して分散、元々自分が興した会社では無いから身を引くと伝えると、自分は嫌だしスタッフの面倒も看られないと言われ、全借金を背負っての分社で再出発、ただスタッフの大半から「自分達も頑張るからオーナー続けてください」と言われた通り、みんなが頑張ってくれ借金の返済完了と同時ら、現在のあんしん館の場所にセット面20面の大きな美容室を出店しました。

これが経営者人生開始から10年が過ぎた頃だったでしょうか、その後も経営者人生は続きましたが、美容業の経営者時代に楽しいと思った事はなく、1年の大半は「金」か「人」の問題があり、バブル崩壊後は美容業界は飽和状態を超えたまま斜陽産業に向かうと思える時代が続いてました。

僕には組織としての美容業で事業拡大するアイデアと能力は無く、そろそろスタッフの将来も考えてあげねば――、と思ってた矢先でもあった52才の9月、八王子裁判所から父親逝去の一報が入るのです。これから先は執筆した通りですから改めては書きませんが、とりあえず流されるから始まる人生も40数年になります。

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