洗脳からの脱却は自称宗教者のお蔭

我想う支援日誌
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特定宗教への信仰心が無い理由のひとつには、お爺ちゃん仏教、お婆ちゃん創価学会、父親無信仰、商売屋でしたから店には恵比須様があり秋だったと思うけど働いてる人達と家族や大人が集まってアコーディオンや司会者がいる宴会!?を毎年自宅でしてた記憶があり、通ってた保育園はカトリックというよろず信仰のような環境が特定信仰持たない礎としてあるのかもしれません。

小さい頃はよく墓参りに連れていかれたり、裏庭にあったお稲荷さんに油揚げを供えるの見たり、お爺ちゃんや父親が豆撒きしたり、お供えは家の内外トイレに至るまで何十か所に飾るなど、信仰と無縁の中で育った訳ではありませんし、元旦の初詣は40年以上続けてますから単に偏屈でも無さそうです。

ただ信仰ではなく恒例というか習慣として行ってるもので、元旦午前3時過ぎ家族で出発して毎年同じ神社に行き1個800円のお守りを13個(武井家5個・千明家8個)買い、神社脇の仮設店で1杯200円の甘酒を飲むと『正月が来たなぁ』と感じ、帰りの道中で元旦駅伝の中継地点を通ると中継車や固定カメラの準備を見て、更に正月を感じるのが毎年のルーティーンです。

日本人の多くは厚い信仰心は無くても、何となくちゅーか、なんちゃって仏教心や神道心を持ってる人達が大半だろうと思うけど、それを完全に消去させてくれたのが宗教者達です。

人として立派な宗教者を演じるなら自宅以外は誰の前でも演じ切らなければ、法話で偉そうな事を言うだけに説得力が無さ過ぎて内心馬鹿にするだけで、ある程度の見識ある人が人間性を見抜けば世間知らずも甚だはなはしいとまともに付き合おうと思わないでしょう。

僕の場合もそうで、葬儀支援を始める前に葬儀社と寺を何十件も周って話しを聞かせて貰いましたが、葬儀社は「うちで葬式した家族には皆さんに喜ばれてますよ」と自信を持って言うし、寺は口を揃えて「お布施はお気持ちですからね」と聞かされました。

『人の死に関わる人達は俺のような凡人と違って人間が出来てるんだなぁ』と感心したり『胡散臭いと思ってたのは俺の勝手な思い込みなんだ』と反省もし尊敬の念すら持ちました。

ところが100名以上の葬儀経験者から話しを聞くと最終的には「葬式代が高過ぎる」「お布施が高過ぎる」ほぼ全員が同じ結論に到達、葬儀社を本音で褒めてる人はおらず、自分の気持ちで包んだ布施額を高いと言う人はいませんから、葬儀社と寺も「嘘つき」か「馬鹿?」なのかと腹が立ってきた。

それを機に冷静且つ客観的な目線で宗教者を見てると残念ながら「人」として立派だと心から思える僧侶に出逢った事はなく、蔭で檀家の悪口を言う人、ただの頑固親父や小母さん、勘違い人間で頭悪すぎな人、結局は自分の利益優先の人、そんな人達の法話など聞く気にもなれません。

その意味では当方をお手伝いしてくれてるお寺さん達は家族からすれば有難い希少価値の住職、そう言えば彼らから檀家や当方会員の悪口を聞いた事はなく根の優しさを感じる発言が多いです。宗教界も一般社会と同じで「あんた仕事の選択間違ってるよ」って人は居るんですね。

そんな自称宗教者の人達のお蔭で僕の『無信仰者意識』は頑強なものになったのでしょう。

もう少し言うと信仰は「生きる指針」であって具体的に実利で助けてくれるものではありませんが、葬儀支援は様々な事情で余裕の無い人達には実利、実態のある活動ですから下手な宗教者より遥かに人の役に立つと自負してます。

僕には出来ませんが被災地で無償ボランティアをされる方々、老人世帯や独居老人の見守りをして歩く人達のほうが、家族事情を無視して高額な布施を当然の如く要求する宗教者とは比較に成らないほど世間の役に立ってるのは間違いありません。

日本人は日々の様々な行事で仏教と神道は幼少期からある種の洗脳を受けていますが、その洗脳から解き放ってくれた自称宗教者は最高の反面教師と言えるかもしれません・・・感謝

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