人は執着を捨てれば楽に生きられる

我想う支援日誌
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生き方のブログを書くなら僕の場合必須となるのが『人は執着を捨てれば楽に生きられる』です。
今回の著書の裏表紙と217頁にも書いてます。個人的にはスゲー簡単な事だと思うけど、簡単に出来ない人達も多いようですから僕の経験談を書いておきます。

執着すればするほど自分で自分を締め付けてるはず・・・

例えば「車」現在はヤフオクで購入したプリウス31万円、千葉県まで日産ノートに乗って取りに行き、乗り換えて戻り、タイヤ、バッテリー、ブレーキパッド等の交換で10万円ほど掛けましたが、それでも41万円、今回は車検2回で4年乗ると月8,500円、これが300万円の車を4年乗るなら月額62,500円と月額54000円の違い、今の僕には大きいから無理はしません。こんな風に口に出してしまえば虚栄心は軽く超えられるはずです。

低価格の中古車だから多少傷が付いても狭い駐車場でも気楽、13年目以降は税金が上がりますが、車体価格が圧倒的に安くて走る分には全く問題ありません。自動車に限らず、何事に対してもこだわれば、拘こだわるほど自分自身を苦しめる事が大半、ちなみに僕がどんな自動車に乗っていようが誰も気にしません。

10年ほど前、幼馴染みが中古のポルシェに乗ってきたまでは問題ありませんが、ポルシェに乗って金が無い騒ぎをしてる姿は滑稽こっけいでしかなく、幼馴染だけに「そんな事で無理をするな」と助言しました。

逃げの思考は餌食になるだけ

16年間、2千数百件の葬儀支援をしてきましたが、せめて死後は極楽のような場所に行きたいと思うのか、成仏したいと思うのか、今までさほど信仰心の無かった人が読経して、戒名を付けて欲しいと言う人や家族がいますが、この逃げの発想は霊感商法の餌食になります(厚い信仰心の方は自分が思うようにしてください)

例えば『読経を唱えれば病気が治る』、そんな事があり得ますか?
なら医者でなく祈祷師が今の時代の治療の主役となってるはず、読経で病気が治るなど絶対にありません。

今朝のネットニュースで、葬式の布施を20万円払ったら住職は遅れてきて短時間の読経、法話では布施が足りないから断ろうかと思った。故人を供養する心が足りないからだと言ったとの話しがありましたが、住職への支払い額と故人を思う心は比例するの!? あんた神様か? こんな馬鹿げた話しが本当にあるんです。

この住職の言動を日本では『傲慢ごうまん』と言います。
死んだ経験の無い僧侶に死後が分りますか? 絶対に分らないし高額な布施は霊感商法と断言します。供養に金が掛かること自体がナンセンス、供養に必要なのは「金」でなく「心」です。

極楽や天国とは、そこに行くには「徳」を積んだり「善行」を促す為、悪行をした人は地獄に行くとは、暴挙になる人を減らし、秩序や道徳のある人間界にするため、仏教熟語で言えば方便、それを我欲として使っているのが今の大半の宗教者ですから霊感商法と言われても当然です。

僕は普通の人より霊感は強いですが、死後の世界があるとは思ってません。
この手の話題は、いくら考えても答えは出ませんので、何があるとか、無いとか考えもしません。だから「死」は恐怖のひとつではありますけど、死後の不安は全くありません。

執着と目標は違います

執着とは、ある事に捉われている状態、今にして思えば家業倒産からは「倒産したからあんなざまだ」と思われたり、言われたくないと、過去の栄光に執着した虚栄心と我欲を抱えた期間が十年以上続いた事から、余分な神経を使ったり、車に関心が無いのに良い車に乗ってた時期もありました。

執着を捨てられたきっかけは、他の経営者から虚栄心からの無理を感じると『この人は何で誰も気にしない、こんな事で無理をするんだろう』と反面教師を見せて貰えた事だと思う。執着の多くは過去への執着であると気付かされてから、過去より今と未来を生きるべきとの目標に切り替えられたのだろう。

今を楽しく生きる為に金は使い、その延長線上に未来があるのだから、今の幸せを感じられない人が、未来の幸せなど明確に分るはずが無く、戦争の無い国に住み、独裁者国家でもなく、普通に動けたり話したりできる心身がある事がすでに幸せであると思えない人は、どんな状況になっても不満は無くならないだろう。

執着は捉われてる状態ですが、目標は目指している状態、死後を金で解決しようとしても無理、まずは今ある人生の日々を生き甲斐を持って、楽しむことを目標に目指し、金はその部分に使いませんか?

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