無宗教葬例

我想う支援日誌
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葬式の定義

葬式とは宗教儀式以前に対象者と親交の深かった人が別れを受け入れるための時間、本来葬式は死後でなく存命中から始まるもの、その最後となる肉体を火葬する時間が皆さんの言う葬式です。

元気な時は勿論、自宅や入院療養中も逢いに来られた人達が集まればよく、義理や親戚だからの理由で集まる必要はなく、厚い信仰心が無ければ宗教儀式をする必要はなく、ゆっくり故人を偲ぶ時間を設けられる場を設けたほうが良い、来てくれる方々を考慮して3~4時間の設定が良いでしょう。

時間帯としては昼食時間を避けた午後1時~午後5時くらいを設定すれば都合はつけ易く、ペットボトル飲料・茶菓子程度を用意しておき、時間のある人は思い出話しも出来る場を準備します。

既存の葬式の流れに捕らわれない

全員参加1時間弱の中で宗教者の読経・祝詞のりとがあり、焼香・玉串奉天たまぐしほうてんをして帰るのが葬式のような印象が強く、それが葬式だと思い込まされてたり、そうしなければ成らないと思い込んでる人も多いですが、僕のような無信仰者にとって僧侶の読経も神官の祝詞も価値はなく無駄な出費でしかありません。

4時間のお別れタイムが設定できれば、来客も時差があるので駐車場も遣り繰りし易く会場も大きい必要はありませんので、費用面でも抑えられるでしょう。

服装は礼服で来る必要はなく普段着で充分、仕事の途中なら仕事着で良く、個人的な感覚で言うと香典無用、但し家族の負担を軽減させたいなら1人¥1,000~¥3,000(お返し無し)寸志や会費なら有りでしょう。

費用を掛けて大きな式場を確保して祭壇には供物や生花を飾り、さして信仰心の無い宗教者の読経・祝詞で時間をとり、家族もゆっくりお別れできず、会葬者は故人の顔さえ見られず焼香・玉串奉天だけして帰り、火葬中は飲食するのが当然のような高額な葬式が現行の実態です。

まずは各々の家族の価値観と考え方で「葬式とはなんぞや」を検討した上で、既存の「宗教者主体の葬式」をするか、上記のような「お別れ中心の葬式」をするか決めておくと良いでしょう。既存の葬式がしたい家族は費用の違いはあれど何処の葬儀屋でも可能です。

上記のようなお別れ中心の葬式の場合、思うような内容が可能な葬儀屋を数か所探し、使い勝手や使用する葬具類の確認、及び最も重要な「総額費用」も正確に確認した上で「もしも」の時は365日24時間いつでも利用できるよう必要な手続きをしておく事です。

無宗教葬の基本思考

無宗教葬にしたいと言いながら宗教儀式の葬式を前提とした発想では、宗教者の読経時間をどう使うか!? 的な発想にしかなりませんので、全ての既成概念を外すのが鍵です。

宗教者は当然自身の信仰の葬式を主張、葬儀屋の大半は仏教徒? としか思えない発言ですから、無信仰者の人達は葬儀屋と宗教者に相談しても意味がありませんので、無信仰者の人に相談すべき、、というか無信仰者以外の人に相談しても相談した意味が無いはずです。

あんしんサポート葬儀支援センターの各プランが何故、過去に無かったものなのか!? それは僕自身が無信仰者であり、無信仰者からすると現行の葬式内容が納得できるものでは無いからです。

葬式は道徳や倫理モラルとは違います

時代が変化しても変化すべきでない筆頭に「道徳」「倫理・モラル」があり祖父母の教えである「自分より弱い人に優しくあれ」は道徳であり社会倫理ですが、葬式はこうあるべきという発想はありません。

もしあったなら「キリスト教」「イスラム教」「ヒンドゥー教」「仏教」「ユダヤ教」更には日本独自の宗教である「神道」全て葬式の在り方が違いますから、何種類もの道徳・モラルがある事になります。

最大宗教のキリスト教は禁止されてる食べ物はありませんが一部宗派は飲酒を禁じてたり、イスラム教なら豚肉・飲酒は禁じており、ヒンドゥー教なら神の使いと言われる牛肉を食べる事はなく、仏教は生き物の殺生はならんと教えてはいますが屁理屈を付けて普通に食べてます。

依って葬式も同様に決まりはありませんが、残る家族の生活を最優先させ無理をさせない葬式を勧めるのは「道徳」であり「自分より弱い人に優しくあれ」のモラルであり倫理です。

宗教者や葬儀屋の戯言に惑わされ自分達の生活を壊されてはなりません。

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