光陰矢の如し

我想う支援日誌
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毎年の恒例行事となってる合同盆法要も11年目、59才の小父さんだった僕は70才のお爺さんになり、長い期間毎年参加されてる方もおられ、年に1度懐かしい顔と逢える時でもあります。

当時は小母さん、小父さんだった人達がお婆さん、お爺さんに成ってる姿を見ると、お互い様ながら過ぎた歳月の長さを感じる容姿となりましたが、振り返ると「あっ」と言う間の17年で正に光陰矢の如しです。

ただ今までの人生と違う印象がひとつあり『次の17年後は生きてる確率は少ない事』、男性平均寿命82才!?から考えると難しいでしょうが、反面70才の今も葬儀支援の現場で動けている――、それだけでも幸せな部類の人生だろうな、、、と思う自分もいることです。

僕は馬鹿なのでしょうか

葬式関連や医療関連と無縁なら理解できますが、3千数百名の葬儀支援を担当し、昨日は肺癌で逝去された67才の方をご安置しており、終幕は年齢に関係なく訪れる事、人はいつ終幕を迎えるか分からず、それは今日かもしれないと分かっているのに自分の死を実感できません。

まぁ意識したら普通に生きていられないのかもしれませんし、直前まで分からないから良いというか、人は分からないほうが良いことがあるのかもしれません。

千明が契約してるNetflixで時々ドラマを見てると、誰かを恨んで見返してやろうとする心が活力源になってたり、出世欲の強い人達のドラマもありますが、我が人生の後半を振り返ると『誰かと比較する』の発想は無い人間であると改めて感じます。

今を肯定が大前提

自分の不幸自慢!? をされる方もいますが全く以て理解できません。自分は不幸であると思いながら生きて何か良いことはあるのでしょうか? 僕には思いつきません。

悠々自適な生活がしたかったと言う人は、とても窮屈な人生を生きてきたのでしょうか? 僕ならそんな我慢はできませんから違う仕事に就いてるはず、納得できない上司の下で働きたくない人間ですから、大企業、公務員には全く向いておらず、ライン仕事もできませんので自分で経営して35年になります。

また悠々自適=超暇人って事だし、少なくとも35年以上は自由奔放でなく追いかけられる人生だったせいでしょうか、今のように電話1本入れば動くしかない生活のほうが合ってます。

そう考えると35才までの人生で自分にとって最善な生き方を知り、次の35年で更に突き詰めてきたようで、身体的には辛い事もあるけど、無借金で精神的に楽、嫌なら受けず、儲からないから媚びる事もなく、多少なりとも他人様の役に立ててる自覚と誇りを持って今を生きています。

惰性でなく目的意識を持つ

例え60代、70代だとしても惰性でなく自分なりの目標を持って生きるべき、目が覚めるまで寝て、起きてもすることもなく、腹が減ったら飯を食べ、退屈ならフラフラして、夜は風呂から出たらテレビを見ながら一杯飲んで寝る――、みたいな生活が好きなら構いませんが僕には無理です。

時間の経つのは速いもの、10年後の目標は立てられませんけど2~3年後の目標なら可能、近未来の目標を目指しつつ、今日を精一杯頑張って楽しんで生きて明日に繫げる人生を過ごしてる。

人生長く生きてれば後悔の1つ2つはあるもの、更なる後悔を増やさず納得できる人生にしたいでしょ!? これも70年のよわいが言わせる言葉なんでしょうね。

さて、本日は午後1時~5時過ぎまで合同盆法要、懐かしい顔が見られる反面、立ちっぱなしで疲れる日、明日も午前は法要・午後は家族葬と続きますから気合を入れなきゃね。

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