葬式感の変化

我想う支援日誌
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18年前の2007年までの僕は大多数の人達と同じ葬式概念を持っており、死後の流れを完全把握している葬儀屋が葬式の舞台と流れをプランニングしてくれ、戒名を授与して貰い僧侶による読経で故人は浮かばれるものであると過去の慣習からも信じていました。

ところが37年前に蒸発した父親の葬式は、たった1人で火葬だけの葬式だったにも関わらず、満足しておられる姿に違和感を感じながらも30年以上の生活と終幕期の話しを聞き、葬式に対する慣習や概念が間違いであると思い始め、改めて確認すると単なる洗脳でしかなったと気づいたのです。

気付かされた事

↓・高額な葬式代の不安と心配をしながら生きてる老人は多い
↓・なぜ死後に高額な費用が必要なのだろうか?
↓・費用の大半は「葬儀屋」と「菩提寺謝礼」である

・派手に行う意味と理由はあるだろうか? 僕の本音は『NO』です
 理由1「永遠の別れを受け入れる時間こそが葬式であり存命中に行うもの」
 理由2「血族でなく対象者と親交の深い人達だけで行うべきである」


・菩提寺への謝礼は適正であり正当だろえか? 僕の本音は『NO』です
 理由3「仏教も含め信仰心はありません」
 理由4「僧侶に引導を渡す、魂の出し入れなる法力はない」
 理由5「家族の気持ちを穏やかにするにしては金額が高過ぎる」

理由1「永遠の別れを受け入れる時間こそが葬式であり存命中に行うもの」
理由2「血族でなく対象者と親交の深い人達だけで行うべきである」
3千件以上を担当し5,000名以上の会員が在籍するあんしんサポート代表の僕でも、死後の葬式は家族だけで良いと思うし、信仰の深かった人達とは終幕前に受け入れる時間を取っているはずだからです。

「死んでから逢いたい!?」そんな偽善の建前論は要りません。

理由3「仏教も含め信仰心はありません」
葬儀支援を始めてみると改めて自分が無信仰者であると自覚、信仰してない宗教者に何かして欲しいと思わないのは当然! 仏教徒が神父にお祈りして欲しいですか? それと一緒です。

理由4「僧侶に引導を渡す、魂の出し入れが出来る法力はない」
僧侶で法力のある人などいませんし逢った事もありません。もっと言えば大半の僧侶より僕のほうが霊感は強いと思うけど、霊感はあっても僕に法力はありません(そんな人は何処にもいませんけど、、)

理由5「家族の気持ちを穏やかにするにしては金額が高過ぎる」
数万円、精一杯高く見積もっても謝礼は5万円上限、理由は単純明快『気休め』に過ぎないから、また住職は人間性に問題のある人も少なくない、自分にそんな能力が無いことは自身が一番よくわかっているはずなのに人前で偉そうに語る姿は滑稽でしかない。

もし引導渡したり、魂を入れたり抜いたりできる法力があると本気で思っている僧侶がいるとすれば、自身が洗脳されているだけの人でしかない、最も宗教とは全て洗脳だから当然とも言える。

洗脳と断言できるのは、その宗教は自身が発想したものでなく誰かに教えられたり、導かれたものだからで、その代表的なものと言えば葬式や法要での法話だろう。大半の話は自身の経験談でなく過去の人物等の経験談や教え、逢ってもない人の事を他人に押し付けるのは感心しません。

葬式感は各自違っていい

信仰心のある人は死後についても共通認識を持っているでしょうが、世界で人数が3番目に多い無信仰者は、法律に沿ってさえいれば各自の価値観と感覚で葬式を考えたり具体化すれば良い。

まずは自分と家族の本音を認識する事から始めれば、自ずと葬式感は分かるでしょうから、そこからあなたや家族にとって望ましい葬式を具現化すれば良いだけの事、葬式に決まりなど無い。

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