日本国民の多くが関心を寄せてる政治家達にも「あんた何処の国の人?」とか「その程度のレベル?」としか思えない政治家も溢れてますから、どんな業界でも不適格な人間はいるんだね。
葬儀業界も然り葬式で多いのが断トツで仏教・続いてキリスト教、いずれも教えが生きる指針になる人もおられるので宗教を否定する気はない。ところで布教する立場の一番手は宗教者だよね? 教えは素晴らしいのに生き様や人間性に納得できない人が多いのは何でかね?
僕が無信仰者で宗教内部を知らないから? だとしても生き様と人間性には関係ねぇよなぁ、ただ住職は沢山見てきたけど神父や牧師との接触は殆どないから僕の言う宗教は僧侶なんだけどね。
キリスト教の根底にあるのは多分「愛」だと思うし、愛の中でも最も至高なのは『無償の愛(代償を求めない愛)』じゃねぇかなぁ、その最たるものが子供に対する親の愛だよね。
我々が目指してきた葬儀支援にも似たような部分があり、布施のように過分な代償を求めたり、してやってる感丸出しで恩を着せるくらいならしないほうが良い。
経済的に余裕の無い家族にも30万円・50万円の謝礼を要求できる性格の人は宗教者になるべき人じゃないと思うから進む道を間違えてるよな、高額な布施を貰わなければ存続できないなら補填する仕事をするか、違う道を進むべきじゃない? きっと檀家の大半も同じ気持ちじゃないかな。
仏教熟語でも有名なものに【諸行無常】があり、この世のすべてのものは常に変化し続け、永久不変なものはなく形あるものはいつか必ず無くなる。諸事情の中で寺の存続が困難も当然なのだから、しがみつかず時代の流れに身を任せるか、時代と地域と檀家の事情に合わせるしかないだろ。
また【情けは人の為ならず】他人に情けをかけると巡り巡って結局は自分に返ってくるとの教え、逆を言えば他人に悪さをしても然りという事、自分の生活を守る為に檀家の生活を壊すようでは、いつか自分も同様の未来を迎えると言えませんか?
他人の話を自慢げにする意味が分からん
以前は菩提寺住職が来て葬式をすると最後に法話をする人もいましたが、感動する話しをした住職は1人もおりませんでした。だって話しが全て他人の事だからね。
法話って仏教の教えを分かり易く伝える事だと思うけと、その教えに従い私は「こうしている」「こんな経験をした」が当然じゃないかなぁ、昔の偉い人の話しをして自分が偉そうな態度をするのは一般的には「虎の威を借る狐」とか「人のふんどしで相撲をとる」と言うのです。
自慢にも成りませんけど、あんしんサポート葬儀支援センターの我々は他人の手柄話しを偉そうに語った事はなく、我々自身が実際に行ってきの現実や経験や失敗の中から、各々の家族の参考になる点をアドバイスしたり伝えたりしています。
終幕を迎える気構えは言えないけど、、
「死」は人間が生きる上で最大なる恐怖、復活という現象を信じるキリスト教信者は死への恐怖が少ない印象を受けるけど、仏教では「土に還る」もあれば「彼岸に行く」もあるし、キリスト教の復活に一番近いと思うのは輪廻転生だけど、死んだ経験は無いから死後は全く分かりません。
しかし終幕が近づいた人達が持つ不安・心配の中には僕らでも解決できるとすれば、死後の肉体と遺骨の処理費用を少しでも抑える事です。
存命中に掛かる生活費・施設入居費・医療費などは我々ではどうにもなりませんけど、終幕を迎えた肉体の処理費用の心配だけでも無くなければ少しは気が楽になれるはずです。
【諸行無常】肉体は必ず滅びますが、誰もが裕福な訳でないから【情けは人の為ならず】日本に住む誰もが、死後費用の心配をする事なく生きられる世の中を目指すのは仏教の教えと同調しませんか? そして、その言動は「人のふんどしで相撲をとる」のでなく【他力本願】でもなく全て自から実践するんです。
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