結論・過去の波乱万丈は全て今の人生の肥やしでした
2008年に興した国内初の「葬儀支援センター」での17年は、かつて無いほど精神的に楽で充実してるのは、僕の人生を大局的に捉えると要所要所の大半は自分の意思より強い流れ、それも決して良くない流れのほうが多かったけど結果的にはそれが幸いしているような人生だからです。
きっと年代や状況毎に様々な幸福感はあったのでしょうが、60才にしてようやく自分なりの幸福感に到達できたような気がするし、僕自身の幸福感は平凡な日常の中にあるものでした。
夕焼け見てワクワクしたり、春や秋の風に癒されたり、以前書いたように夜中にお迎えで都内まで高速道路を走ってる時に何故か幸福感を感じるって変でしょ?
多分だけど幼少期から多感期まで波乱万丈の人生だった事から、平凡がいかに幸せかを経験則で感じるのかもしれませんね。戦時中から終戦後の心境のようなものでしょう。
自身の器や適性を学ぶ
上記が幸福感の基礎であるとすれば、自分の器、資質、適正に合った仕事をすれば楽に生きられるのは当然ですから、それらも経験として教えられてます。
祖父母の教えで唯一出来ないのが『実るほど頭を垂れる稲穂かな』と同義語の『俺が俺がの「我」を捨ててお陰お陰の「下」で生きろ』ですから、多数の部下を持ったり、商人のように腰の低い対応は我慢なので長続きしませんから少数精鋭で現場監督のような生活が性に合ってます。
それらは全て言葉でなく実体験から学ばせられる結果となり「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」や「可愛い子には旅をさせよ」のような強制的な人生経験は今の礎でしょう。
僕はツイてると思ってますけど、これって僕だけでなく多くの人は同様なのでは?と思うので、後は各自の考え方と捉え方次第だろうとも思いますし、要所、要所の分岐点には敵味方問わずトリガーとなる人物がいたように感じてます。
その1人が蒸発した父親であり、美容業経営者の僕に「葬儀屋しませんか?」と一般的には考えられない発言をしてくれた千明であり、多くの会員さんであり、最悪な依頼者であり、大嫌いな業者、評論家、住職等ですから僕には全ての人達が反面も含めた教師だったようです。
全ては偶然と強烈な流れ
お気づきでしょうか!? 勿論、最終判断は自分ですけど、僕の人生の大半は僕以外の原因や要因ですから僕からすると偶然の流れ、それも稼業の倒産を筆頭に降りる事も出来ない激流ばかり、良くも悪しくも流れに乗った時のほうが結果オーライでした。
流れに逆らわず乗っていれば、何処で降りるべきか、何処に着岸すべきは自然に見えます。だから『俺はツイている』と思うし「俺は先に恵まれてる」と感じるのです。
次回「だから儲からなくても平気」です
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