ジャネーの法則
前回ブログで千明が「つい先日おせちを食べたばかりなのに――、」のような言葉を良く使うと書きましが、これを「ジャネーの法則」と呼び、5才の1年は人生の20%を占めるのに対し、50才の1年は2%なのは当然なんだけど、だから短く感じると言われても理解できません、、僕が馬鹿なだけでしょうか?
他の法則についての疑問で言えば『マズロー5段階の欲求』は「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」と段階的に欲求が変化する考え方、僕自身も肯定してた時期もあるのですが、最近は「違うんじゃねえ!?」って思ってる。
社会的な地位もあり立派な人物と称される人でも強い「性的欲求」が優先される時があったり、他の欲求が表面化する時だってあるのを支援活動の中でも見てきたから、過去の欲求は残ったまま新たな欲求が上塗りされるけど、以前の欲求は残ってて表面化する事もあるんじゃない?
何事に対しても決めつけるべきじゃないのは今の政界を見れば明らか、例えば政治家、教員、宗教者、警察官、医師、役人など一般的には善人とか立派な人と思われがちだし、人を騙すような人間じゃないとの思い込みは、悲しいがな正論ではないって事です。
個人的には性善説を信じたいけど、そうじゃない現実も沢山見てきたから正確に言うと他人の事は分からないけど、自分は性善説の人生を生きたいし、そのほうが楽に生きられると思っている。
常識は180度変化する
まず常識は当たり前に180度変化するのは昭和前半生まれの人なら誰でも経験しており、昔は歩行者より車優先だった時代、乗り物は我先に乗り込んだ時代も経験してるはず、しかし現在の日本は真逆だから他国の人が同様の言動をすると非常識だと思うだろう。
戦時中の日本で兵士の命は「九牛の一毛より軽い」兵士の命など取るに足らないもの、と言われた時代もあれば、福田赳夫氏は総理時代「人の命は地球より重い」と言った時代もあるし、平和な地域・紛争地域・豊かな国・貧しい国でも違うという現実を理解しておく必要があるだろう。
怖いのは印象操作
ブログ内で思想、政治、国家感を語る気はありませんので身近な点に的を絞ると、故人の尊厳なる言葉と供養を結び付けて、火葬だけの葬式では供養に成らず故人の尊厳を無視した扱いであるかの如く、能書きを垂れる葬儀屋と宗教者がいるが印象操作でしかない。
17年間の支援活動でかつて喪主をされた方が何十人と終幕を迎えてますが、その中には「代表、俺の時も頼むね」と念を押された故人がいて、初めは単なる葬式依頼だと思ってました。
だから「再入会してるんだから大丈夫だよ」と言うと「そうじゃないよ、家族を守って欲しいお願いですよ」と言われ意味不明だから「とういう事!?」と聞き返したのです。
すると結論は残す配偶者や家族の生活に支障の出ない葬式を頼む、という事らしいが真意が分からず訊ねると家族に必要ですか?と問われても不要なら「要らない」と明言するし、金は出さず口だけ出す無責任な親戚には「なら残った家族の面倒を看るのか!?」と言う姿を見てきたからの「頼む」でした。
その意味では自身は宗教儀式無用と考えても、兄弟姉妹から異論が出たら家族は反論できないかもしれない不安があるからの「頼む」もあるようですから、「分かったけど、自分の字で葬式内容の希望ほ書いて家族に渡しておいて」と何度か伝えたこともあります。
仏教の住職・神道の神主・キリスト教の神父(牧師)は、それぞれの信仰儀式が必要と考えるのは当然ですが、宗教儀式が必要であるとする発想は無信仰者の僕からすると印象操作でしかないけど、故人の尊厳という言葉で押し付ける傾向も強いです。
しかし宗教儀式が故人の希望であると紙面に記してあれば、水戸黄門の印籠の如く効果を発揮するし、それこそが故人の尊厳を守ることなのです。
老人の知る常識は非常識も多い
葬式は僧侶が読経して当然の常識は過去の産物、遺骨は墓に埋葬も同様、国内に於いて過去の常識が変化した代表例は子供家族が親と同居しない現実、道徳論はどうでもそれが現実です。
葬式で言えば『残る家族の生活に支障の出ない葬式』と『死後費用の心配をせず生きられる事』が実現されるなら法律違反で無い限り堂々と行えば良いんです。また故人の兄弟姉妹等の口出し無用、これが今の常識であると認識しておくべきです。
マナー・常識以前に「優しさ」
葬儀支援を続ける中で強く感じるのは、マナーうんぬん、常識うんぬんと押し付ける人達の多さですが、ハッキリ言えば、そんなものより残る家族の生活を最優先する『優しさ』が一番大事です。
また老人なら礼服を着せる事より「楽な格好」、仕事中の人なら作業着で充分、諸事情で「金」がない家族なら、能書きより手を差し伸べる事が最優先など、あらゆる場面で常識論やマナー論を主張・強要するより、人としての優しさを最優先すべきだろう。
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