2007年9月仕事から帰るとベッドのサイドテーブルに一通の封筒が置いてある。
差出人名は八王子裁判所『えっ!?俺なにかした?』と思う自分に少し呆れフッと笑いが出るが開封すると蒸発した父親が残した遺言書開封に立ち会うか、委任状を送付するよう即す手紙でした。
八王子にいたのかぁ、家業倒産が中学3年15才、現在52才だから37年前の事、指定された日時は仕事で行けそうにありません。
僕の所に手紙が来たって事はと隣接市在住の妹に電話すると同じ封書が届いていおり話しは通じました。
「お前行くのか?」
「うん、行こうと思ってる。兄貴は?」
「仕事で行けそうにない。悪いが行ってくれるか」
「うん、委任状渡して貰えば行ってくるよ」
電話を切ると37年前、蒸発した前夜の記憶が蘇る。いつもは部屋に来ない父親が珍しく僕の部屋に来て優しい笑顔で言う。
「暫くぶりだけど元気にしてるか?」
「う、うん、突然どうしたの?」
「ま、たまにはな」と笑顔で続ける
「人生は色んな事があるけど男なのだから、何があっても強く生きていくんだよ」
家業が倒産など微塵も考えておらず『なんだよ突然』と思いながら「はぃはぃ、分ったよ」
父親は笑顔で「うん」と頷き部屋を後にしたのです。
翌日、午前零時を回ると1階店舗のシャッターが全て開けられ車の中で待機してた業者さん達が一斉に飛び出て我先に商品や物品を持ち出す。
霧雨が降る中『これが倒産かぁ』と何処か他人事で夢のような感覚の中で眺めていた自分を思い出します。
業者さんが真剣な顔で商品を持ち出す姿を見て『そんなに慌てる事か?』と不思議に思いましたが翌日になると理由が分りました。
金融関係の人でしょうか、店だけでなく部屋にあるもの全てに価格を書いた赤い紙を貼っていきます。
当時37才の父親は怒ると怖いけど普段は子煩悩で社員さん達や周囲には気前がいい人、今思えばお人好しとも、お調子者とも言える人だったように感じます。
でも僕にとっては自慢の父親でした。顔立ちは「遠くへ行きたい」を歌ったジェリー藤尾さんのような風貌ですから女性はいただろうと思いました。
指定日の翌日、妹に電話すると、
「行ってきたけど遺言書の中身はどうって事無くて、一緒にいたらしい女性と少し話したけど結構、良い生活して海外旅行も行ってたみたい」
ちょっと怒ったような言い方、自分は蒸発したけど残った家族は大変だった事を振り返ると腹立たしい妹の気持ちも理解出来ます。
「ところで、その女性との間に子供は?」
「いないみたいだよ」
「そっか、その女性の電話番号分るか?」
「分るよ。じゃあ言うよ」
携帯番号を聞くと父親の悪口を聞きたくなくて早々に電話を切った。
冷静に考えれば倒産前夜に自分だけ蒸発、倒産後の整理は全て家族に押し付けた父親への恨みつらみは当然だろうし不思議ではありません。
ただ僕自身は倒産から37年父親への恨みは湧いた事もなく『どうしているだろう』と思い10年ほど前に探してみようかと思った事もありました。
しかしよく考えると父親が僕を探すのは簡単なのに探さないのは彼なりの理由があり、探して欲しくないのかもしれない。
家族を置いて逃げた父親だけど、きっと心が休まることは無かったろうと思うと責める気にはなれません。
それより気になったのは父親逝去が74才だとすれば70才過ぎたお婆さんが一人残されたって事、子供がいないなら、この先人生が心配でした。
僕には垢の他人でも父親の最後を看取ってくれたのは確かと連絡すると神奈川県に転居していると分り逢いに行くことになりました。つづく