「3」想定外の葬式

一銭も要らないお葬式
この記事は約5分で読めます。

父親は60才頃に糖尿病発症、70才を超えた頃はすでに歩行も困難になったことから、行けるうちに最後の思い出としてグァムに行き、その後は父親との思い出を積み重ねながら終幕期を過ごしたようです。

葬式は彼女1人で火葬だけ、焼骨はハワイの海に全て散骨するよう言われてたそうです。散骨という言葉は聞いた事がありますが『散骨って本当にあるんだなぁ』が最初の感覚でした。

焼骨はリュックを背負ってハワイに行き海に撒いて来られたそうですが、父親の言いつけ通り全て撒いて来ましたと聞いた時「何で遠いハワイの海に全散骨なんだろう?」の疑問が湧き、父親の立場に立って考えると何となく分かったような気がしました。

自身終幕後の流れは全て自分で計画してあり、線香は嫌いだから要らない、花は赤いバラがいい、水でなく水割りにして欲しい、俺に万が一の時は近所の葬儀屋に行けば全て段取りしてあると言われてたそうで、改めて葬式写真を見ると、線香はなく、バラの花が飾られ、グラスには黄色っぽい水割りです。

「今もこの場にいて良く頑張ったって見守ってくれてる気がするんです」と言ってました。彼女の中の父親は優しく自分を見守ってくれる人だった事は分かりました。

倒産の責任も取らず、家族6人を放り出して消息を絶った父親、地元に残された家族は金銭的にも精神的にも辛い時期を過ごした過去を振り返ると、2人で国内外の旅行にも行けるゆとりのある生活をしてた事が、少し腹立たしかった妹の気持ちも理解できるし当然だと思います。

けど僕の名前を甥だと嘘をついてまでくちにした父親の心情を考えると、恨みつらみよりブルーシートの生活で無く、彼女と過ごす時間だけは心が安らげたのでしょう。

最後に「父親がハワイの海に全て散骨する理由は聞いてますか?」と尋ねると「いいえ、聞いてませんが海が好きだったからでは?」と言うので「多分違うと思います」と答えると怪訝けげんそうな顔をしたので僕の感じたままを伝えました。

「自分の遺骨を残したら貴女の人生の足かせになる。だから何も残さない選択をしたんだと思います」と伝えると「どういう事ですか?」と聞かれましたので感じたままを話します。

「自分が居なくなった後、一人で寂しく過ごす姿より、誰かに包まれて幸せに過ごす姿を見るほうが気は楽なはず、その為の何も残さない選択だと思えるのです」

「これから貴女が人生を共にしたいと思う相手が現れた時、自分の遺骨や墓があったら躊躇ためらいが出て大切に思ってる貴女の人生への妨げになる事だけはしたくないと思ったのでしょう」

「だから父親の亡霊に縛られるのではなく父親との思い出は心にしまって、毎日を元気な笑顔で過ごせる人生を選択することが父親に対する最高の供養であり安心させられる事だと思いますよ」

と言って彼女を見ると目を真っ赤にしながらも笑顔で大きく頷いておられました。

群馬まで数時間の車中、頭の中で昨日からの話しを振り返ると、彼女から感じた満足感とも達成感とも思える様子がやたらと気になるのです。

お葬式で満足感は僕の中ではミスマッチ、真意はどうであれ「葬式=悲しみ」の図式、葬式の司会者は泣かせようとしているかのような言葉と音楽、わざとらしくハンカチで涙を拭う真似をする親戚、それがマナーであるかの如く振る舞う人達しか知らない僕には新鮮な感覚でした。

いつも心の何処かに引っ掛かり続けてた父親の消息は住所不定のホームレスでなく、彼を支え温もりを与え続けてくれた女性ひとがいた事実には感謝しかありません。

豪華で派手で会葬者が多い葬式自慢をする人は何人も見たけど、たった1人で火葬だけの葬式なら申し訳なさそうな、恥ずかしそうな態度になりそうなもの、しかし心から満足してる顔になれる葬式もあるんだと52才で初めて教えられた訳ですから自然と好奇心に火がつきます。

「線香は嫌いだから要らない」「菊の臭いも嫌いだから飾るならバラにしてくれ」「水でなく水割りが良い」「遺骨は全てハワイの海に撒いてくれ」この発想自体初めて聞きましたが、その通りにした彼女の行動力にも感服と固定概念を持ってた人間からすると目からウロコでした。

過去に経験してきた家族や親戚の葬式とは全く違う葬式もさることながら、彼女の中での葬式はグァム旅行に行った数年前から始まっていたらしく、よくよく考えてみれば最後に逢うなら意思の疎通ができる段階で逢いたいと思うのが普通、死んでから逢いたいは戯言に過ぎません。

葬式には様々な決まり事があり、そうしなければ成らないもので、結構な費用が掛かるものと思い込んでましたが、父親の葬式を聞く限り全く違う事をした彼女は満足しており、死後1か月近く経った今も父親と暮らした日々だけでなく葬式や散骨も良き思い出になっているのです。

どうも葬式の真髄は過去の経験以外にありそうだと思うと、帰ったら色々調べたい衝動に駆られながら『葬式とは何ぞや』の疑問が浮かんで来る中、西に沈む夕日に向かって一路前橋まで高速道路の運転は、心地良い時間となってたくれました。

葬式とはなんぞや

前橋に戻った翌日からネットで葬式について調べますが、調べれば調べるほど疑問が増え続けるのです。当時は「葬式=宗教儀式」と書いてある記事しかありませんでした。

しかし僕は完全な無信仰者ですから僧侶の読経、神父のお祈り、神主の祝詞いずれにも有難みはなく、もっと言えば信仰心も無いのに高額な謝礼を渡してまで宗教儀式をして欲しいと思いませんから、葬式=宗教儀式という発想そのものが洗脳と思えるのです。

そこで宗教であれ、思想であれ、過去の慣例であれ、納得できないものは納得せず、流されないの意思を明確にした上で各宗教について、死体について、法律についても学び、一般の人達よりは詳しくなれましたが、納得できない点も多々出てきました。

2025年現在、世界で一番信仰者が多いのはキリスト教23億人、イスラム教18億人、無信仰者13億人、ヒンドゥー教11億人、仏教5億人の順位は当時から変わりません。

だとすればキリスト教は「天国」イスラム教は「楽園」ヒンドゥー教は「天」仏教は「極楽」と死後の世界を呼んでますから死後は信仰毎に様々な世界があるのか、もっと言えば無信仰者用の「あの世」も存在する?という疑問がまず初めに出てきました。

コメント